三角のレシピ

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乃木坂46のMVに対するとめどないこの気持ち

乃木坂46 7th single『バレッタ』MVの残酷と淫靡 生身のアイドルを愛せるか?

今回は7th single 表題曲『バレッタ』のMVについて。

乃木坂のMVってあまり歌詞をストレートに映像化したりはしない傾向ですが、この作品は特に歌詞と映像とがあまりに乖離して不可解だとよく言われています。

ですが、よく見れば「観る者の悶え」を描いた歌詞の世界に対し、「観られる者の戦い」を表現した映像が作られていることがわかります。つまり曲と乖離しているのではなく、曲への返歌としてこのMVがあるのではないかと考えました。

以下、解釈を述べていきます。

 

制作者によればこのMVのテーマは「制服は最強」。セーラー服を着て武器を携えたメンバーが悪の組織とドンパチやりあう痛快な映像がメインです。

しかしながら、その前フリとなる曲前の冒頭シーンは「生きた女子高生に薬物を注射して剥製にし、オークションにかける」というかなりの胸糞もの。伊藤万理華の熱演も手伝ってだいぶパンチのある映像ですが、ここがもっとも示唆的で面白いシーンだと感じました。

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単に設定の残酷さでいえばこれ以上のものはいくらでもあります。しかしこのシーンをアイドルが演じているということに、非常に心がざわざわさせられるんです。

思うにそれは、「女子高生を剥製にすること」が「女の子をアイドルとして愛でること」の比喩として成立してしまうがゆえではないでしょうか。

 

剥製にされた女の子は、いつまでも若く美しい姿のままで、口をきかず、自由に動けず、ましてや恋などする筈もなく、ただ愛玩されるために存在させられます。

おぞましい行為だと感じるでしょう。

けれどアイドルという職業の女の子たちが強いられていることは、これとどこが違うのか。

 

「超絶かわいい!」「〇〇は神」などと持ち上げる一方で、外見の変化や加齢が目についた途端に「劣化した」「ババアは卒業しろ」と揶揄する。

少しでも悪く取れるような言動があれば、それよりはるかに心無い言葉を使って集中的に叩く。

TVやステージにとどまらず、舞台裏やプライベートでの行動にまで注文をつける。

男性タレントとの共演、現在や過去の恋愛、写真に写りこんだ人影やら指輪やら、「男の影」となりうるものは徹底的に詮索される。

ファンはアイドルにあらゆる感情をぶつけているのに、彼女たちがファンに対して感情的になったり言動を否定したりすることは決して許されない。

 

アイドルの姿を追っていればこんな光景が嫌でも目に入ります。

こうした環境に耐え続けろというのは、心を殺し、生きた人形になれと言っているようなものではないか。それでも笑顔を絶やさないことを「アイドルとしてのプロ意識」と呼ぶことは、都合のいい人形を求める人間が己の身勝手さを正当化しているだけではないか。 

剥製になったバック8がステージに並べられるシーンを見ながら、そんなことを考えさせられました。

 

こう言うとアイドルやそのファンを否定しているようですが違います。アイドルに心無い態度をとる人がすべてではないこと、アイドルとファンの間にちゃんとした交流があることもわかります。

ただ、女性アイドルには「いつも笑顔でファンの期待に応える」という芸能人としての規範と「処女性、従順さ」などの若い女性としての規範が二重にのしかかっており、これらはアイドルやそのファン自身が一朝一夕に決めたルールではなく、すでに世間にはびこり、疑問に思う人はいても結局は誰も壊せない因習のような不文律です。

 

女性アイドルに求められる負担は重く大きく、感情のある人間の生業としては相当な危うさをはらんでいることは確かでしょう。 

その「危うさ」に加担していることを見つめたくないからか、「好きでアイドルをやって金をもらっているんだから負担があっても仕方ない」と言う人もいます。

おそらくアイドル自身もそこには葛藤があるのではないでしょうか。

 

 その葛藤を象徴しているようにも思えるのが、MVのラストシーン、「堀未央奈による白石麻衣の銃殺」です。

 

これは言わずもがな、「ガールズルール」の白石麻衣から「バレッタ堀未央奈へのセンター交代を象徴させたシーンです。それ以上の意味がどれほどここに込められたのかはわかりませんし、多様な解釈ができるように作っているのだとは思います。

ですので主観が強くはなりますが、ここでは剥製シーンで感じたことにもとづき解釈してみます。

 

冒頭、伊藤万理華が注射を打たれた直後、マエストロはそばにたたずむセーラー服の少女に「もっと素材を持ってこい!」と命じます。

はっきりと顔は映りませんが、おそらくこの命令を受けた少女は堀であり、彼女は白石たちに助けを求めるふりをして「素材」をおびき寄せたように見えます。

しかし白石たちに組織は倒されてしまう。

堀を救出し、全員で撤退するかと思いきや、白石を背後から突然狙撃する堀。

「だって…こうするしかないじゃない」と彼女はつぶやく。

残されたメンバーは混乱しながらも堀に銃口を向ける。

そして最後の暗転とともに響く一発の銃声は、おそらく堀の自死によるものです。

 

堀がマエストロの組織とグルであった(=潔白な存在ではない)こと。組織が壊滅させられても堀は自由の身にはならず、組織と心中してしまうこと。

これらは「アイドルに心を殺させているのは、アイドル自身でもある」ということの暗喩と見ることができます。

 

辛さを訴えても「嫌なら辞めればいい」と言われると、なんとも返しづらい。そこで成功を目指すことを選んだのは自分自身だという自覚は皆持っているからです。

それにアイドルにとって負担となる部分は、同時に彼女たちの戦略性を試される場でもあります。私生活の潔癖さや”あざとかわいい”振る舞いを武器にする子、あえてそれをしない子、特にこだわりを見せない子。すべてが戦略となりうるでしょう。

 

アイドルの世界の理不尽さに疑問を持ったとしても、少なくともその世界に身を置いている間はルールにのっとって振る舞い、ファンの人気を獲得しようとする女の子。

彼女が生身の人間であることを知りながらも、自分の目に入るところでは自分の理想を壊さないように振る舞う女の子を求めてしまう観客。

両者は舞台を介していわば共犯関係を結んでいる。 そしてこの世に共犯関係ほど淫靡なものはないと思うのです。

両者がともに欲するのは舞台の熱狂であり、それが生まれている以上は、両者の関係を醜悪と断じることも、当然の道理と庇うことも、どちらもいくらかは正しいとしてもいくらかは野暮でしかありません。

グレーな関係は演者による幕引きがない限り続きます。

 

少女を剥製に仕立てる謎の組織(=少女をアイドルとして売り出す運営)を倒したとしても、舞台の上に立つ限り観客の視線から自由になることはない。本当に解放されたいならそこに立つのをやめるしかない。「だって…こうするしかないじゃない」ーーー堀の白石狙撃と自殺はそのことの暗示ではないでしょうか。

つまり、話題性を狙ったセンター交代劇というグループ内の残酷な仕掛けと、そもそもアイドルでいること自体につきまとう残酷さとを重ねて描いたのが本作のラストシーンであると思います。

 

ダンスシーンではメンバーがあやしげな店のステージで歌い踊り、上着の裾をめくって脱ぐような印象的な振り付けを見せます。

このMVがショービズの世界を表現しようとしていることはとてもわかりやすい。

残酷で淫靡なショービズの世界で、華麗に踊りながら戦っている少女たちの姿、それが『バレッタ』のMVで描かれる主題です。

 

それと『バレッタ』についてもうひとつ触れておきたいのが、ジャケット写真の素晴らしさ。

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少女たちの何気ない日常を切り取っただけなのに、いつかは必ず過ぎてしまう刹那の輝きを感じさせる。

恋い焦がれる少年が少女の観客になる様を描いた歌詞と、ショーの演者である少女の戦いを描いたMV。その舞台裏での等身大の様子を表現したジャケット写真。

一見して関連性がないようにみえる要素が実はつながっていて、”少女のまぶしさ”がその通奏低音である『バレッタ』。MVのパッと見の印象とは裏腹に、実は非常にアイドルらしい作品ではないでしょうか。

 

舞台の上で完璧に振る舞えるよう努力するアイドルが魅力的なのはもちろんですが、なにより尊いのは彼女たちが人生の中の大切な時間を切り取って見せてくれていることです。

だからたとえ私達が演者と観客という関係にすぎないとしても、最低限の見物料として彼女たちを生身の人間として傷付けないように敬意を払いたいと思うのです。