三角のレシピ

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乃木坂46のMVに対するとめどないこの気持ち

乃木坂46 9thアンダー曲『ここにいる理由』 アイドルの存在理由を問う

今回はこちら、前回の『バレッタ』同様、意味不明と評判の『ここにいる理由』MV(食べるver.)。

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・父と祖母が待つ朝の食卓にかわるがわる現れるメンバー

・マジでそれ朝食?というメニューを次々繰り出すばあちゃん

・それをよろこんで食べるメンバー

・テレビに映る「ここにいる理由」ダンスver.のMV

・何も気にせず新聞広げるパパさん

・どのメンバーのシーンでも同じ時刻を指す時計

・ラストシーンのみ時間が経過し、夕刻。部屋に家族の姿はなく、一人呆然とお腹に手をあてて座る伊藤万理華

 

…たしかに何が何やらという感じで、自分も初見では意味がわかりませんでした。

公開時の制作者のコメントも「可愛い女の子がひたすら食べる様子を撮った」みたいなことだけだったし、特に深い意味はなく絵の面白さを味わうものかな?とも思いました。

 

けれど「ここにいる理由」というタイトルを浮かべながら、メンバーと朝食のメニューがどんどん変わっていく様を見ていると、この映像が意味しているものに気づきます。

それは「他人にとって自分の代わりはいくらでもいるかもしれないが、自分にとって自分の代わりはいない。最後に残るのは他人の目線ではなく、自分が費やした時間と食べたもの=経験である」ということではないかと。

 

この映像の面白さ、そして不気味さのモトは「誰もツッコまないこと」です。

・パパとばあちゃんは娘が次々入れ替わることを指摘しない。(パパは何か言いたそうにしてるようにも見えますが、結局ツッコんだのは川後チョップに対してのみ。)

・娘は朝食のおかずに何を出されても素直に受け入れて食べる。

・テレビに映るアイドル(それも、明らかに娘たちと同一人物)に誰も興味を示さない。

全員が「何が出てきてもかまわない」という態度を取り続ける食事シーンは、次のような問いかけを示すものだと考えられます。

 

家族は代わりのいない存在であるはずなのに、まるで朝食のメニューのように、そこに出てくればどれでもいいというふうに扱われてしまう。

ファンに存在を特別視されるべきアイドルも、興味を持たない人からすればどの子も同じようなもので目に留まることがない。

自分は誰にとっても特別ではないのか?

それなら、「ここにいる理由」はなんなんだ?

 

そしてその答えとなるのが、ラストシーンでしょう。

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それまで8時8分を繰り返し指していた時計が急速に周りはじめ、部屋は一気に夕刻になる。そこには誰もいない。

部屋から他者がいなくなり一人きりになったとき、そこにあるのは自分の意識だけで、経過した時間と何かを食べたであろう実感が確かに存在する。

 

他人が自分をどうとらえるかというのは、特にアイドルという立場からすれば非常に重要なことにみえます。

けれど、最後に残るのは自分という存在だけであり、他者の評価の中に自分の実体は存在しない。

だから、「自分のためにそこにいればいい」。

トリッキーな映像は最終的にシンプルなメッセージに辿りつきます。

 

メンバーを並べた画像を作ってみて気づきましたが、ロングヘアのメンバーはみんな髪をストレートにして下ろしていますね。このことが「いろんな女の子がいる」というより「誰が誰でも同じ」という光景を狙って撮られたことをうかがわせます。なのでこのあたりに主題があるという読みはそう大きく外してはいないかなと。

 

歌詞の情景とは異なるものの、タイトルから想起した内容をMVで展開していく。

このパターンは他にもありますね。

作詞家がいつも同じであること、歌詞の完成とMVの制作時期とが噛み合わないことを鑑みれば当然の手法ですが、それを抜きにしても洒落ていて個人的に好きなやり方です。

『ここにいる理由』のように「不可解」「シュール」と言われているMVは大抵、歌詞の内容と離れすぎるあまりタイトルと映像がリンクしていることすら伝わりにくくなっているのだと思います。

それが顕著なのは『逃げ水』あたりで、手法は同じだけれど比較的わかりやすいのが『新しい世界』でしょうか。

いずれも浮世離れした雰囲気が出ていて魅力的な作品だと思います。